むかしむかし、江戸の本所(ほんじょ)の辺りには、池がたくさんありました。池にはたくさんのナマズやフナが、棲んでいました。水は濁ってましたが、岸辺から軽く眺めただけでも魚の影がちらほら見えるほどです。ですから、池は魚釣りをする人で賑わっているのかと思えば、実は全くの逆なのでした。
なぜならばこの池で魚を釣って、いざ帰ろうとすると、どこからともなく
「おいてけ~、おいてけ~」
と不気味な声がするから。それがあまりにも気持ち悪い声なので、釣り人は震えあがり、釣った魚を置きっぱなしで、一目散に走って逃げ帰るのでした。
こうしていつからか、この池は「おいてけ堀」と呼ばれるようになり、誰もここで魚釣りをしなくなってしまったのです。
ある日のこと。そんな噂を知ってか知らずか、金太(きんた)という若い男が池にやって来ました。
釣り竿を担いで歩く金太を見た町の人は、
「おまえさん、おいてけ堀で魚を釣ると怖い目に遭うぞ」
と声をかけました。
「ははは。そんなもの全然怖くなんかないやい」
金太は笑いながら答えました。
「どうなってもわしは知らんぞ」
「平気じゃ。平気じゃ」
こんな調子で池に着いた金太。担いで来た釣り竿の針に餌をつけ、さっそく糸を水の中に垂らしたのです。
するとどうでしょう。釣れるわ、釣れるわ。面白いように魚が釣れるのです。金太は得意気になりました。すっかり魚釣りに夢中です。
いつの間にか日はすっかり暮れ、夜になってしまっていました。
「おや、もう真っ暗じゃ。たくさん釣れたことだし、そろそろ帰るかな」
金太はよっこらしょと立ち上がり、魚がわんさか入った「びく」を引き上げました。
すると…やはりどこからか低い重い澱んだ声が、聞こえてくるではありませんか。
「おいてけ…おいてけ…」
金太は声のする方へ向かって叫びました。
「馬鹿を言うんじゃないやい。せっかく釣れたのに、置いていくわけにはいかん」
それでも声は続きました。
「おいてけ~おいてけ~」
こんな不気味な声の相手なんてしていられないと、金太は知らんぷりをして、すたすたと歩きはじめました。背中越しに「おいてけ~」という声が、まだ聞こえてきます。
全く無視して進む金太。ところが横丁の角を曲がったところで、人にぶつかってしまいました。
「いててて…気を付けやがれ」
金太が叫ぶと、ぶつかった人はすまなそうに細い声で答えました。
「すみませんね…」
その顔を見て、金太はびっくり。着物姿の若い女性…なのですが、その人の顔には目も鼻も口もなかったのです。のっぺらぼうでした。
「ぎゃあああ!」
実際に化け物を目にすると、恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。金太は釣った魚も釣り竿も投げ捨てて、必死で走って逃げました。
どれだけ走ったことでしょう。走って走って、もうここまで走れば大丈夫というところまで、走りました。
そこにはちょうど一軒のお茶屋さんがありました。
「こりゃいい。喉がからからだ。茶をもらおう」
金太は店に入り、店のおやじに声をかけました。
「おやじさんよ、すまないが茶をくれないか。走って来たから、喉が渇いてな」
おやじは何か作業をしていたのでしょう。こちらに背中を向けながら答えました。
「それはそれは。何か走らねばならない急ぎの用事でもありましたかな」
「ああ。さっき化け物を見てね」
「化け物…?」
「そうじゃ。化け物じゃ」
金太がこう答えると、おやじはゆっくりと振り返りました。
「その化け物は、こんな顔じゃなかったかね?」
おやじの顔ときたら、やっぱり目も鼻も口ない、のっぺらぼう。金太はまたもや大きな叫び声をあげ、そのまま気を失ってしまったのだそうな。
むかしむかし、江戸(えど)の本所(ほんじょ)の あたりには、池がたくさん ありました。池にはたくさんの ナマズやフナが、すんでいました。水は にごってましたが、きしべから かるくながめただけでも 魚のかげが ちらほら見えるほどです。ですから、池は魚つりをする人で にぎわっているのかと思えば、じつは全くの ぎゃくなのでした。
なぜならば この池で 魚をつって、いざ かえろうとすると、どこからともなく
「おいてけ~、おいてけ~」
とぶきみな こえがするから。それがあまりにも 気もちわるいこえなので、つり人は ふるえあがり、つった魚を おきっぱなしで、いちもくさんに 走ってにげかえるのでした。
こうしていつからか、この池は「おいてけぼり」と よばれるようになり、だれもここで 魚つりを しなくなってしまったのです。
ある日のこと。そんなうわさを 知ってか知らずか、きんたという わかい男が 池にやって来ました。
つりざおを かついであるく きんたを見た町の人は、
「おまえさん、おいてけぼりで 魚をつると こわい目にあうぞ」
とこえをかけました。
「ははは。そんなもの ぜんぜん こわくなんかないやい」
きんたは わらいながら こたえました。
「どうなっても わしは知らんぞ」
「へいきじゃ。へいきじゃ」
こんなちょうしで 池についたきんた。かついで来た つりざおの「はり」に えさをつけ、さっそく糸を 水の中に たらしたのです。
するとどうでしょう。つれるわ、つれるわ。おもしろいように 魚がつれるのです。きんたは とくいげに なりました。すっかり魚つりに むちゅうです。
いつのまにか 日はすっかりくれ、よるになって しまっていました。
「おや、もうまっくらじゃ。たくさん つれたことだし、そろそろかえるかな」
きんたは よっこらしょと 立ち上がり、魚がわんさか 入った「びく」を ひき上げました。
すると…やはりどこからか ひくい おもい よどんだこえが、聞こえてくるでは ありませんか。
「おいてけ…おいてけ…」
きんたは こえのする方へ向かって さけびました。
「ばかを言うんじゃないやい。せっかく つれたのに、おいていくわけにはいかん」
それでもこえは つづきました。
「おいてけ~おいてけ~」
こんなぶきみなこえの あいてなんて していられないと、きんたは 知らんぷりをして、すたすたと あるきはじめました。せなかごしに「おいてけ~」というこえが、まだ 聞こえてきます。
まったく むしして すすむきんた。ところが よこちょうの かどを まがったところで、人に ぶつかってしまいました。
「いててて…気を つけやがれ」
きんたが さけぶと、ぶつかった人は すまなそうに ほそいこえで こたえました。
「すみませんね…」
そのかおを見て、きんたは びっくり。きものすがたの わかいじょせい…なのですが、その人のかおには 目も はなも 口もなかったのです。のっぺらぼうでした。
「ぎゃあああ!」
じっさいに ばけものを 目にすると、おそろしくて おそろしくて しかたありません。きんたは つった魚も つりざおも なげすてて、ひっしで はしってにげました。
どれだけ はしったことでしょう。はしってはしって、もうここまで はしれば 大じょうぶ というところまで、はしりました。
そこには ちょうど一けんの おちゃやさんが ありました。
「こりゃいい。のどが からからだ。『ちゃ』をもらおう」
きんたは みせに入り、みせのおやじに こえをかけました。
「おやじさんよ、すまないが 『ちゃ』を くれないか。はしって来たから、のどが かわいてな」
おやじは 何かさぎょうを していたのでしょう。こちらに せなかを向けながら こたえました。
「それはそれは。何か はしらねばならない いそぎのようじでも ありましたかな」
「ああ。さっき ばけものを 見てね」
「ばけもの…?」
「そうじゃ。ばけものじゃ」
きんたが こうこたえると、おやじは ゆっくりと ふりかえりました。
「そのばけものは、こんなかおじゃ なかったかね?」
おやじの かおときたら、やっぱり目も はなも 口ない、のっぺらぼう。きんたは またもや大きな さけびごえをあげ、そのまま 気をうしなって しまったのだそうな。