【群馬県】分福茶釜伝説

分福茶釜伝説 群馬県館林市
ふしぎどうぶつ

一般向け かんじすくなめ こどもむけ

むかしむかし、群馬県の館林(たてばやし)というところに茂林寺(もりんじ)という寺がありました。
あるとき、寺で千人法要を営むことになり、大勢に茶を振る舞うための茶釜が必要になりました。

茶釜をどうしようかと、坊さんたちは首をひねって考えていましたが、守鶴(しゅかく)という坊さんが、ふらりとどこかへ出掛けていき、どうやったのかは判りませんが、茶釜をひとつ手に入れてきました。
「良い茶釜だ」
皆それを気に入り、守鶴の茶釜を法要で使うことにします。

ところがこの茶釜、どれだけ湯を汲みだしても、水を注ぎ足さなくても、湯が全くなくならないのです。不思議な茶釜は法要で大活躍。千人分の茶を淹れる湯は、この茶釜ひとつで賄うことができました。

守鶴はこの茶釜を幸福を分け与える茶釜、『分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)』と名付けて、この茶釜の茶を飲めばご利益がありましょう、と言いました。

茶釜

それから随分時が経ったある日のこと、守鶴はひとりでぐうぐうと昼寝をしておりました。
そこへ守鶴に用事があった坊さんがやってきて
「ちょいと守鶴さんや…」
と呼びかけようとしてびっくり。いびきをかいて寝ていた守鶴の股の間には、大きな尻尾が生えていたのです。

そう、実は守鶴の正体は狸、しかも数千年生き続けている古狸だったのです。大昔にインドで釈迦の説法を受け、中国に渡り、そしてはるばる日本にやって来て、この寺に居たのでした。

正体を知られてはもうこの寺に留まることはできないと、守鶴は最後の名残りに、人々の前で実際に見てきたという釈迦の説法と源平合戦を再現してみせました。

皆が感動して涙を流す中、守鶴はもとの狸の姿に戻って飛び去ってしまったのだそうです。

むかしむかし、ぐんまけんの 「たてばやし」というところに 「もりんじ」という 寺がありました。
あるとき、寺で 千人もの人をあつめた ぎょうじを いとなむことになり、おおぜいに「ちゃ」をふるまうための「ちゃがま」が ひつようになりました。

ちゃがまを どうしようかと、ぼうさんたちは くびをひねって かんがえていましたが、しゅかくという ぼうさんが、ふらりとどこかへ 出かけていき、どうやったのかは わかりませんが、ちゃがまをひとつ 手に入れてきました。
「よい ちゃがまだ」
みな それを気に入り、しゅかくのちゃがまを ぎょうじでつかうことにします。

ところが このちゃがま、どれだけ「ゆ」を くみだしても、水を つぎ足さなくても、「ゆ」がまったく なくならないのです。ふしぎなちゃがまは ぎょうじで大かつやく。千人ぶんの「ちゃ」を いれる「ゆ」は、このちゃがまひとつで まかなうことが できました。

しゅかくは このちゃがまを こうふくを 分けあたえるちゃがま、「ぶんぶくちゃがま」と名づけて、このちゃがまの「ちゃ」をのめば ごりやくが ありましょう、と言いました。

茶釜

それからずいぶん 時がたった ある日のこと、しゅかくは ひとりでぐうぐうと ひるねをしておりました。
そこへしゅかくに ようじがあった ぼうさんがやってきて
「ちょいと しゅかくさんや…」
とよびかけようとして びっくり。いびきをかいて ねていたしゅかくの またのあいだには、大きなしっぽが はえていたのです。

そう、じつはしゅかくの 正体はタヌキ、しかもすう千年 生きつづけている 古タヌキだったのです。大むかしにインドで「しゃか」のせっぽうをうけ、中国(ちゅうごく)にわたり、そしてはるばる 日本にやってきて、この寺にいたのでした。

正体を知られては もうこの寺に とどまることはできないと、しゅかくは さいごのなごりに、ひとびとの前で じっさいに 見てきたという「しゃか」のせっぽうと 源平合戦(げんぺいかっせん)を さいげんしてみせました。

みながかんどうして なみだをながす中、しゅかくは もとのタヌキの すがたにもどって とびさってしまったのだそうです。


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