【山梨県】振り米

振り米 山梨県富士河口湖町
かなしい

一般向け かんじすくなめ こどもむけ

むかしむかし、富士山の麓では作物があまり育ちませんでした。まず米は全くと言っても良いくらいに収穫できませんでした。他の作物といえば、トウモロコシとかヒエとかアワとかキビがあるくらいで、それもまた充分な量にはなりませんでした。

だから村の人たちは、いつもお腹を空かせていました。米なんて食べたことがありません。米は菩薩様と呼ばれて、それこそ神様や仏様が食べるものだと信じられていたほどなのです。

村人たちはごくわずかな食糧で、どうやってお腹を膨らませるかに苦心する毎日でした。
たとえば芋や葉っぱを鍋で煮て、そこにトウモロコシの粉を入れ混ぜてとろみをつけ、味噌を加えたおかゆだとか、トウモロコシの団子だとか、そんなものばかり食べていたのです。

それだけに村の誰もが、死ぬ前に一度は米の飯を食べたいと願ったものでした。

米

村人が重い病気になったときは、一生懸命看病しました。けれども村に医者なんていませんし、薬もありません。栄養のある食べものもないありさまなのです。
お寺にお参りして祈ったり、神社にお百度参りをしたりと、神様仏様にすがるしか手はありませんでした。

しかし、思いも空しく病人がもはやこれまでの容体になったとき、村人には最後の手段がありました。他の村へと、ひた走るのです。必死で走って他の村へ行って、そこで頭を下げて、貴重な一握りの米を借りて来るのです。
そして借りた米を竹の筒に入れて、病人の耳元で振って、米の音を聞かせたのでした。

食べたい食べたいとずっと願っていた米。その音を聞いた途端、もうだめかと思われていた病人も、何やら元気が出て、重い病気が治ってしまうことがあったのです。
またどうしても治る見込みがない者も、米の音を聞くと表情が柔らかくなり、安らかに天へ旅立ったのだそうな。

むかしむかし、富士山(ふじさん)の ふもとでは さくもつが あまりそだちませんでした。まず米は 全くと言っても よいくらいに しゅうかくできませんでした。ほかのさくもつといえば、トウモロコシとか ヒエとか アワとか キビがあるくらいで、それもまた じゅうぶんなりょうには なりませんでした。

だから村の人たちは、いつもおなかを すかせていました。米なんて 食べたことがありません。米は「ぼさつさま」とよばれて、それこそ かみさまや ほとけさまが 食べるものだと しんじられていたほどなのです。

村人たちは ごくわずかな しょくりょうで、どうやっておなかを ふくらませるかに くしんする 毎日でした。
たとえばイモや はっぱを なべでにて、そこにトウモロコシのこなを 入れまぜて とろみをつけ、みそをくわえた「おかゆ」だとか、トウモロコシのだんごだとか、そんなものばかり 食べていたのです。

それだけに村の だれもが、しぬまえに 一どは米のめしを 食べたいと ねがったものでした。

米

村人が おもいびょうきに なったときは、いっしょうけんめい かんびょうしました。けれども村に いしゃなんていませんし、くすりも ありません。えいようのある 食べものもない ありさまなのです。
お寺に おまいりして いのったり、じんじゃに おひゃくどまいりをしたりと、かみさま・ほとけさまに すがるしか 手はありませんでした。

しかし、おもいもむなしく びょうにんが もはやこれまでの ようだいに なったとき、村人には さいごのしゅだんが ありました。ほかの村へと、ひた走るのです。ひっしで走って ほかの村へ行って、そこであたまを下げて、きちょうな ひとにぎりの米を かりて来るのです。
そしてかりた米を 竹の「つつ」に入れて、びょうにんの 耳もとでふって、米の音を 聞かせたのでした。

食べたい食べたいと ずっとねがっていた米。その音を聞いたとたん、もうだめかと おもわれていた びょうにんも、何やら げんきが出て、おもいびょうきが なおってしまうことが あったのです。
また どうしてもなおる 見こみがない ものも、米の音を聞くと ひょうじょうが やわらかくなり、やすらかに 天へ たび立ったのだそうな。


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